本書の著者「内田樹」先生の本を読み続けている。ブログも読み続けている。シンクセルさんから数年前に紹介していただいた。詳しい内容は忘れたが、たしか、彼との対話の中で、議論に行き詰まり、彼がブログから引用した内容で、議論を再開したときからである。
最初のブログからのイメージは、「大学教授」とは感じられない「軽さ」を感じてしまった。
(たまたま、そのような内容だったかもしれないし、私の大学教育者に対するイメージとの乖離があったからかもしれない)
しかし、様々な社会事象に対する、先生の論評に納得させられ、「そうだったのか」と頷く自分がいた。
「現代霊性論」(釈先生との対談)も聴講し、すっかり「おっかけ」状態である。
私が本書に収録されているような文章を書くのも「何かみなさんに伝えたいこと」があるからではありません。あらかじめ「伝えたいメッセージ」が存在していて、それをキーボードを叩いて出力しているわけではありません。何が悲しくて「自分がもう知っていること」を印字するのに手間ひまをかける人間がおりましょう。よく外国映画で、教室で騒いだ生徒に罰として、「二度とこんなことはいたしません」と黒板に、百回かかせるようなシーンがありますね。「もうわかっている」ことを書くのは本人にとっては苦痛のはずなんです。P8
内田先生の本は、「まえがき」が結論や考察のようになっていて、それ自体が、私の参考図書になっている。まえがきの「命題」を各章で、論証されているようだ。「まえがき」がおもしろいので、最後まで、そのテーマに入り込んでいける。
私たちがものを書くのは、「もうわかっている」ことを出力するためではなく、「まだ知らないこと」を知るためです。自分がつぎにどんな言葉を書くのか、それがここまで書いたセンテンスとどうつながるのかが「わからない」ときのあのめまいに似た感覚を求めて、私たちは言葉を手探りしているのです。 それと同じように、「ウチダ、それは違うよ」と私に告げる人の言葉に私が注意深く耳を傾けることがあるとしたら、それはその人の頭の中にある考えを知るためではありません。 だって、その人が本当に批評的に豊かな情報を発信しているとすれば、それはそのことを語りつつある本人もまだ知らないことであるはずだからです。【(中略)意味がつながらないので、飛ばしたくないのですが、書き写すのは本当に苦痛】なぜなら、その人が「自分は何を考えているのか」の探求を始めるきっかけをつくったのはほかならぬ私の存在なんですから。 私たちが自分について知りたいと思うことは他者を経由してしか入手されない。P9
私が欲するものは、他者を経由してしか入手できない。
まさに内田先生の本を読んでいると、「他者」である本との対話、いや、私の中に潜むいまだ知り得ない他者との対話から「気づき」(私についての知)を得る。
内田先生は、わたしの何がしかの解決したい問題について、あたかも批評してくるように、「立ち会ってくれる」。言葉に出来ないが、もう出来そうな「もやもや感」の時に顕著であるようだ。
本書は
まえがきがながくてすいません
第1章 コミュニケーションの作法
第2章 身体は知っている
第3章 社会システムの盲点
第4章 出会いとご縁
第5章 作品からの「呼び声」
第6章 メメント・モリ
あとがき
の構成で、内田先生が多数の雑誌に投稿したエッセイをまとめたものである。
私の想像では、演繹的に章立てを行ったのではなく、たくさんのエッセイをカテゴライズしてから、
「ながいまえがき」をお書きになられたのでないか。カテゴリーの関係性を「読者」(他者)に向けて考えながら結論づけられたので、多くの方は、まえがきにおいて「意味の生成に立ち会う」ことができて、こちらも「おもしろい」のではないか。(間違っていたらスイマセン)
各章ごとに、私自身に気づく点が多々ありました。スルーした内容もありましたが、おそらくそれは私の感度のせいでしょう。
なかでも、ヒットしたのは、第1章 「コミュニケーションの作法」にある、「喫煙の起源について」。おそらく内田先生はたばこをすいません。私は喫煙者であります。「たばこ」の害も仕事柄、十二分に承知している。(というかある意味専門家)過去2回半年間は禁煙した経験をもつ。「たばこ」に関しては、声高に「禁煙推進」している方々よりも、喫煙や禁煙も含めて、かなり長い期間考えているとおもう。おそらく、私はそのうちにたばこをやめると思うが、たばこは悪の根源であり、社会の悪者である喫煙者を更正させるような態度をもつ「嫌煙活動」には参加したいとは思わない。なぜかと問われても、いつも答えに窮していた。その人たちの言説をみると「原理主義」が頭をよぎる。「・・・がなければ幸せ」という語法。「たばこがなければ・・・・」。
ごもっともなんですが、なにか頭ごなしに感じて、コミュニケーションしずらい。本当にたばこがこの世の中から消滅すれば、「健康問題」のほとんどが解決できるのだろうか。わたしには、わかりません。
おそらくそうなるのでしょう。
喫煙習慣について、あまり知られていない事実が一つある。それは、「たばこは見ず知らずの人から貰ってもよい」ということである。例えば居酒屋で( 中略 )たばこを切らしたときに、「あの、1本頂けますか?」と申し出るのはそれほど非礼なこととは見なされない。それは見知らぬ隣の人から「ま、どうそ」と一献差し出されたときに、「知らない人からお酒を頂く義理はありません」と拒むことが非礼とされるのと、対をなしている。 これは、献酬や喫煙が、起源的に「共同体立ち上げの儀礼」であったことの名残をとどめている遺習ではないかと私は考えている。 (中略) わたしたちの社会からはすでに献酬の習慣が消えた。今また喫煙の習慣も消えようとしている。おそらく、遠からず応接室でお茶を供する習慣も、宴席で隣人のグラスに酒を注ぐ習慣も、煩瑣だから、無意味だから、あるいは健康に悪いからという理由で消えてゆくだろう。けれども、共同体の存続よりも個人の健康を優先する人々が支配的になる社会において、人が今より幸福になるように、私には思えない。P42どのような社会が、住民は幸せに感じるのか。「ヘルスプロモーション」の行く末は。 喫煙問題は根が深い。
嫌煙活動家の方々、態度が悪くてすみません。